昭和四十七年二月二十七日 朝の御理解


X御理解 第七十九節 「商売をするなら買い場、売り場と言うて、元を仕込む所と売り先とを大事にせよ。口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい」


 今日、ここ、道理に合う信心をせよということを二・三日頂いております。人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせよ。いわゆる、道理に合うた信心をせよと、そこにひとりでに物が出来るようなということは、もうすでに、お徳を受けるということです。道理に合う信心とはいろいろあります。けど今日は、新たな九十七節からその事を頂いてみたいと思います。
 道理に合う信心ということは、当たり前のことを当たり前に言うことだとこう思う。それをそうすることが当たり前なのだけれども当たり前のことをしない。いわゆる当たり前のことを当たり前にさして貰うから、当たり前のこととしておかげを頂かれるということは、ひとりでにものが出来るようなおかげということになるわけです。そうでしょうが。そこのところがよくわかって聞かんと今日のところはわからん。
 今日の御理解は、道理に合う信心ということは、当たり前のことを当たり前に、親が子のことを願い、子のことを親が願う。当たり前のこと。ところが親が子のことを願うけれども、子が親のことを願わない。言うなら子は親を大切にすることは当たり前のことなのだけれども、当たり前のことをしない。だから当然おかげを頂けるところが頂けん。その当たり前のことをしない。だから当然おかげが頂けるところが頂けん。ね、そうでしょうが。私は道理に合う信心とはそういうことだと思うです。
 今日はまあ商売人に対することなのですけど、売り場買い場を大事にせよとおっしゃる。確かに売り場買い場を大事にするならです、これは商売というものが繁昌することはもう、それこそひとりでに出来るような繁昌することには間違いない。こんな道理に合うた話はないです。商売人が仕入れ先を大事にさせて頂いて、お客さんを大事にさせて頂いて、大事にするだけではない。売る商品でも、よそが十銭で売るなら八銭で売るというような生き方をとらせて頂いて、もうそれこそ当然のこととして繁昌することは間違いない。道理に合うからです。高い所から低い所に水が流れるようにスムーズなおかげが頂かれる
わけです。それを私共が出来るだけ買い場の方を叩く。売り場の方もちっとでも高く売ろうと、よけい儲かろうとする。丁度、下から上へ水を流す程難しい。それを私共はやっているわけですね。
 皆さん、今日は道理に合う信心をさして貰えばね、道理に合うたおかげが受けられる。ひとりでにものが出来るようなおかげを受けられる。まあ一昨日から、昨日から頂いて大変に難しかった。今日の道理に合う信心と言うのは、実を言うたら実に容易いのです。
 例えば、商売の人が今まで家の商品の札を見て見るがよい。他所が十円で付けてあるところを、家が十一円でつけてあるならば、それを早速もう今日帰ってから符蝶を替えることじゃ。仕込むところを大事にしてないならば、もう今日から早速大事にすることじゃ。 ところが私共が、これはまあ、私事を申しますと、もう根っからの商売人は、商売人は儲かるということが商売です。儲かるということを抜きにしたら商売じゃない。それを儲からせて貰うことなら有難いけれど、自分で儲かろうとするから、人が十銭で売る物を十二銭で売って平気でおる。そして神様どうぞ十二銭で売らせて下さいと願っておる。私の商売がそげな風でした。人が十銭で売る物は十一銭で売ることが、商売人が腕が良いのだと思っておりました。 他所の酒が、これは私が北京時代でしたけど、一本が五円でした。ところが私の方だけが五円五十銭でした。もうそこから成程、安かのより高かその方がよかのじゃろうという気が致しますから、やっぱり売れることは売れました。いわゆる、商売上手で又、神様にお願いしておかげを頂きましたけど、それでは後々、ひとりでに物が出来るおかげにつながらないのです。それは、それでは、徳は受けられんのです。それは、何十銭か高く売るので儲かりますので、それではそれまでのこと、ひとりでに物が出来るようなことにはならん。道に合わないです。
 言うなら、例えば、七十八節から、そこんところを頂きますと、神の気感に適わんです。そのことが、他所が五円で売る物を五円五十銭で売るなんて、そのことが神の気感に適わんけれども、私共、只儲かりたい一心ですから、そういうことを平気でやって来た。お酒に水を割ったり、人のせんようなことをしておるわけです。まあ思うなら、自分の商売が繁昌しなかった筈だ、いやいや繁昌しとっても、本当に裸一貫で帰って来なければならないこれはです。そんなにして作ってしまっている。私は今合楽で頂いとるようなおかげを本当に頂いておったら、今ごろはもうそれこそ、大商人になっておっただろうと思う。どうもそう思うです。
 商売人はそういうことはもうこすいことではなくて、当たり前のことだと思うておった。人は十円でしか売り切らんものを、十一円で売り切る。十二円で売り切るとは、もう商売が上手のことのように思うておった。そしてやはり信心しておった。言うなら、我情我欲のための何十年間の信心ということであった。それでは道理に合わんでしょうが。儲かると言うことだけなら、その時は儲かるか知らないけれども、差し引かれよるけん大したことはなか。絶対、そういうことは神の気感に適わん。七十八節の最後のところに、神のおかげを知らぬから、互い違いのおかげになって来る。信心して、神の大恩を知れば無事
壮健で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来ると。一年勝り代勝りのおかげになっていかん。
 商売するのに信心を元にして、信心を土台にしての商売。それを売り場買い場を大事にする。十銭のものは八銭で売ると、損して売れということではない。よそよりもいくらか安く売らせて貰うということ。その代わりに、体はちびるものではないから、体は一生懸命使うが良いと、ここで教えておられる。自分の頂いている御用にです、一生懸命になる。そしてお客大事に、仕入先を大事に、それが神の気感に適うから、ひとりでにものが出来るようになる。そういう道理に、もうこんなに道理に合うた話はないですよ。
 よそが十銭で売っているものを八銭で売るならもう、確かにお客が喜ばれ、余計に売れることに間違いない。もうはっきりしてるです。そのはっきりしていることをです、私共がね、十銭のものが十一銭で売ろうとする、十二銭で売ろうとする。そしてぐるっとまわって来て、安いところは見らんで高いところだけ見て来て、あ、どこどこも幾らで売りござるけんちゅうちから、高かとこどん見て来る。家のはもう一銭位上げたって良かばいというごとあることになって来る。それで信心してね、その場その場のおかげを頂けましてもね、ひとりでに物が出来るようなおかげには絶対にならんです。神の気感に適わんもの。如何にお徳を受けようと思っても、もうその一字でお徳を受けられるものである。
 今日は皆さん、私は商売人のことですけど、決して商売人だけのことではないですよ。一事が万事に、その道理である。道理に合うことは、道理に合うことを当たり前にするということです。子供が親を大事にするということは、もう当たり前のこと。その当たり前のことを当たり前にしないから、いわゆるひとりでに物が出来るようなおかげになって来ないのです。
 仕事をおろそかにしておって、人が十時間働くところは、五時間位しか働かんといて、例えば、そうするから、他所よりも高う売らにゃ出来ん道理。ここんところ本気でひとつおかげを頂いて頂きたい。こんなに容易い話はないが、こんなに難しい話はないということを私自身が体験して来て、それを思うです。けれども、例えば今私共、御理解頂いておるようなです、頂いておったら、ひとりでに物が出来るような商売が出来ておったに違いないと思います。今にして思うのです。
 昨日、私は、これは大変な難儀の問題を抱えている方のことを思わせて貰いました。そしたらこの頃頂いております、稲村ヶ崎ですか、新田義貞が自分の宝のようにしておる宝剣を龍神に供えて願うところが、そういう古事との御理解であった。それを観念をお願いするんだということでございます。
 昨日もやはりある方が観念の御供をしてるわけです。そのところを海に自分の持っておるものを持って、なかなか思い切って捨て切らんわけです。その観念を、なかなか、御供えしようと思うけれども、なかなか観念の御供えが出来ん。それでこうして持っておったら手がだるうなった。だから危うくはっと思うように、取り落とそうとしたところを頂いた。観念でもね、観念の御供えをどうにもこうにも出来んから御供えするのは、もう御供
えではなかです。それは取り落としたのです。だからどうしてもここには潔さが必要なのです。
 今日は例えば、商売人のことと思しておりますが、そのことではないです。やはり観念の御供をするということです。どうにも出来んから、御供したら、恐らく取り落としたのと同じです。そこに潔さが必要なのです。商売人はやはり儲からにゃいかん、だから人が十銭で売るものを十二銭で売るのが儲かる。その観念が外されない。それだから、それこそ出血売出をせなければならん。もうそれこそ、これを割ったような値段で叩き売りせなければなりません。そうする前に、そういうことになる前に、まあそれは商策としてでもございましょうが、本当に売れないとですね、もう本当に半額でも良かということに、本当に出血販売をせなければならんようにあるです。
 そげなこといるかと、本当にお客さんに喜んで頂き、自分も喜ぶように、十銭の物を八銭に早くして売るような仕方を身に付けるということ。そういう観念をね、捨てなければいけん。捨てるということよりも、その考えと観念を神様に御供えする。私の方は絶対、他所よりも五分なら五分だけ安く売ります。そういう神様に御供えせねばいかん、観念を。それが神の気感に適うのです。しかもこれが、こげん道理に合うたことはないでしょうが。ここで同じ品物で十銭の店と十二銭の店があるなら、十銭の方が売れることは絶対です。道理に合うのです。
 だからそういう道理に合う信心をです、身に付けて行くということが、ひとりでにものが出来るように、なおそこから、成程道理に合う信心とはそういうものか、道理に合う信心すれば、このようにすれば商売は繁昌するものかということがわかって来るから、神の大恩がわかり、神のおかげがわかるから、七十八節に言われるように、代勝りのおかげが受けられる。そのことにより徳が受けられるということです。神の気感に適うから徳が受けられる。
 信者さん同志の中にもあります。本に、あそこに同じものがあるけん、あそこから買いたいと思うばってん、信心しよんなされん。誰々さんのようにの方がやっぱり安かけん、やっぱり銭金のおつき合いが出来ん。もう信心しよらん人の方がかえってよくなる。ずるい、それではね。そのずるさとこすさとが、神様が顔を合わせて下さるが、それでも神の気感に適わんから、ひとりでに物が出来るようなおかげにならんと。こんなに道理に合うた話はないでしょうが。しかも、私は金光様の信者ですと、どんなに逆とんぼ打っても参りよっても、例えば、そういう神様の気感に適わない。生活しとっても、ひとりでに物が出来るようなおかげを受けられなくなるのです。
 例えば、この七十九節なら七十九節だけでもです、観念の御供えをさして頂いて、おかげを頂けばです。教祖様のおっしゃることが、成程合点が行くようになるから、他の御供えが楽しく楽に行ずることが出来るようになるです。もうひとりでものが出来るようなおかげになって来る。 
 今日の道理に合う信心というのは容易いでしょう。子供が親を大事にせにゃならん、親
孝行せにゃならん、親を大事にせんならん。当たり前でしょうが。それこそ小さい時から生まれて今日まで、親に心配をかけて来たこと。親に御恩になって来たこと、当たり前のことでしょう。その当たり前のことをようせんで、反対に心配をかけるけど、これだけでも神の気感に適わんからおかげにならん。
 だから道理に合うことは、当たり前のことを当たり前にする。商売人はやはり儲からんならんために、儲からなければならんどころじゃない。だから本当に、いわゆる親の代より子の代と繁昌して行くように、それが出来ることのために、道理に合うた信心をせねばならん。出来るだけよい品物をできるだけ安く売る。こんな道理に合うた話はない。それなら絶対高いところから低いところに水が流れるように繁昌するです。
 こげなわかり切った話はないのだけれども、私共は観念がある。やっぱり十銭の物は十二銭で売った方がよけい儲かるというたような観念が。ならその観念もいよいよどんこん出来んごとなっての半額売出ということではね、今言うように、取り落としたものと同じことです。成程観念の御供えもせにゃんせにゃんと思いながら、出来んならもうきつうなってしまう。そして、取り落としてしまう。取り落としたとでは、天地が受けては下さらんです。御供えじゃないから。神様は喜んで私共の御供えを受けて下さる。
 まあ容易いことですけれども、やはりそこには、ひとつの潔さ、私は本当に金光様の信者だと言う目覚めに立って、今日から金光様の教えて下さる行き方で、商売をさして貰う。日常生活さして貰う。決して無理なことをせよと仰るのじゃない。正札を入れ替えるだけで良かとじゃ。もう駆け引きばっかりして、十銭の物は十二銭で売ろうとするから、成程、ごまかして売ることは売ろうけれども、結果に於いては半額で売らにゃんごとなるから、そしてあの店は高かということになって信用まで落として仕舞うことになる。出血売出をせんならん。それはもう御供えでなくて、しょうことなしに取り落としたのです。お客さんに喜んで頂くということは、そのまま神様に喜んで頂くことになる。いわゆる神の気感に適うということなのです。同時に自分のさせて頂いとる仕事に対して、一生懸命にならなければならん。体はちびるものではないから、働くが良いとこう仰る。いわゆる寝食を忘れてということになる。
 そういう私は道理に合うた信心からです、道理に合うたおかげが受けられる。そのおかげというのは、ひとりでに物が出来るようになる。それが神の気感に適うからである。おかげを頂いて、商売なら商売を通して、神の大恩がわかるようになる。神のおかげがわかるようになる。だから、自らも無事達者で、子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられるということにまでなって来るのですから、その場その場のおかげじゃいかん。
 商売に対するお道の信心の行き方は、この様に道理に合うた教えをなさっておられます。だからこれは、商売人だけではありません。皆がその同じ道理に基づいて、当たり前のことを当たり前にするということ。それを、汚い心を出したら、怠慢になったり、そして神の気感に適わんから、お願いをすればおかげを頂くというだけで、例えば信心が止まっ
ておったら、ひとりでに物が出来るようなおかげにはつながらない。一年勝り代勝りのおかげが受けられるとおっしゃるそういうおかげにつながらない。如何にもおかげにつながっておるようであっても、これは、私がよか手本です。裸で引き上げて来んならんという結果になる。いわゆる半額売出しをせんならんような道理になる。それよりか、早も安う売って適当な利益で、一つ売るとは二つ売り、二つ売れるところは五つ売れるようなお繰り合わせを頂いた方が、その方が得だともここでは教えておられる。
 このように簡単な、例えば事柄がです、何十年信心しようたっちゃ出来とらん人が大変多いことは実に悲しいこと。神様もまた本当に悲しまれることであろうと思う。只、儲かりますようにばっかりの願いで、本当に儲からせて頂けれる、ひとりでに儲からせて頂けれるような道理を外して、只願っておかげを頂くだけでは、本当のおかげが頂かれんことをわかって頂きたいですね。どうぞ。